なんとなんと第二弾、
アラフィフの少年時代シリーズの続編です!
前回記事ではEの生い立ちやEが幼少期、1970年代の世相とキッズヒーローなどについて語りました。
と、
今回も少年Eのヒーローについて語ります。
今回は全部実在の人物です。
当時少年たちのヒーローといえばなんといっても野球選手、その中でもホームランバッター。
そして小学生の頃からロックに目覚めていた少年E。
そう、少年Eのヒーローといえばあの本塁打王、そして70年代後半を席巻した日本のロックバンドたちでした。
今回は少年Eの情熱の変遷について語ります。
世界のホームラン王、誕生の瞬間は?
世界のホームラン王が日本人であることは誰もが知る事実ですよね。
Eが小学生低学年の頃、日本中をある話題が駆け巡っていました。
巨人軍の4番打者、王貞治がホームランの世界記録を作る、
と。
実を言うとこの話題、Eは学校の友達経由で知るんですがそれまで野球自体やったこともなくよく知りませんでした。
これって当時、小学生の男子としてはかなり乗り遅れている方でした。
今では信じがたいことですが、昔は巨人の全試合をテレビ中継していました。
きっと野球のシーズンになると各家庭ではお父さんがビール片手に、子供たちもテレビの前で王選手のホームランに熱狂していたことでしょう。
ところがEの家にそんな光景はありませんでした。
Eの家でテレビで野球の中継が流されることはほぼなし、でした。
というのも父親が全く野球に興味なし。
父はあの昭和最大のスーパースター、長嶋茂雄と同世代であるにも関わらず!
当時カラーテレビは超高級品でしたから一家に一台しかテレビはない。
Eの家の一台しかないテレビではどんな番組が流されていたかというと
【午後5時~6時台】学校から帰ってくるこの時間帯は子供の天国です。大全盛期だったアニメや、ウルトラマンなどの特撮ヒーロー番組をEが独占していました。
【午後7時台】 この時間は父親が帰ってくる前後の時間。父が帰ってくるまではEがアニメを見ますが、帰ってきたら最後、チャンネル権は完全に父に。巨人の野球中継などもちろんなし。
【午後8時以降】完全にチャンネル権を掌握した父によって時代劇や刑事ドラマなど。子供には全く興味なし。そのせいもあってか当時Eはかなり早寝な方で、9時頃には就寝。
そんな事情で、Eにとってプロ野球というのは遠い世界の出来事。何が起こっているかは学校の友達から風の噂で聞くだけ、という別世界のような存在でした。
ホントにEは王選手が1980年に引退に至るまでテレビでその姿を見た記憶がありません。
高校生の頃、Eのプロ野球熱が再燃してようやく日常的に野球のテレビ中継を見るようになります。
その頃、ホームラン王だったあの王選手は王監督となっていたのでした。
あのホームラン世界記録の全国的な大フィーバーの時期でさえも、家のテレビチャンネルが野球中継に回されることがありませんでした。
あまりにもテレビで見ないせいで、Eはそもそもテレビでプロ野球中継が見れることさえ知らないくらいでした。
そして、そろそろ来ると言われていたその時がついに来ました。1977年9月3日、後楽園球場のヤクルト戦。
王選手はそれまでの世界記録、アメリカのハンクアーロンの755本のホームラン記録を抜く、756号ホームランをライトスタンドに運んだのでした。
が、Eはそのことを翌日学校で友達に聞いて知るという…
王貞治の記録の数々
通算ホームラン数:868本(※世界記録)
通算満塁ホームラン数:15本
通算サヨナラホームラン数:8本
通算安打数:2786本
通算打点:2170点
連続試合ホームラン:7試合
本塁打王:15回(13年連続あり)
首位打者:5回
打点王:13回
三冠王:1回
最優秀選手:9回
ベストナイン:18回(18年連続)
ダイヤモンドグラブ賞:9回(9年連続)
※赤字は日本記録
これってすごすぎませんか?
王貞治氏の引退後、彼の実績に匹敵する選手として落合博満氏、イチロー氏などがいました。
そこそこ野球ファンなEとしては彼らの活躍もリアルタイムで見てきました。
が、野球の華ホームランをあれほど打ちまくった選手をリアルタイムで見る機会を気が付くと逸していたというこの悔しさ…
この世界一美しきフォーム!
※詳細は画像をクリックしてください。
野球全盛時代の少年E
ともあれ当時、王選手のユニフォーム姿は新聞や雑誌などあちこちで見ることになります。学校でも男子全員の憧れの存在。Eが毎月読んでいる小学生向けの雑誌でもスーパーヒーロー。
となれば訳もわからないままEも王選手、そして巨人軍の大ファンになっていました。
実際にプレーしている野球中継を一度も見ることなく…
時は野球の全盛時代。
巨人V9の黄金期は過ぎたとはいえ、プロ野球は新たなスターが続々誕生。
高校野球でも江川投手などヒーローを次々に排出。
『ドカベン』などの野球漫画も少年たちの間で大ブーム。
そう、むしろ父が家に不在の時間帯にやっている高校野球はよく見ていました。
やがて少年Eにも「野球がやりたい」という思いがふつふつと湧いてきます。
そんな時、野球好きで草野球にも打ち込んでいた叔父がいて、さっそく野球をEに教えてくれました。
軟式ボールで叔父とキャッチボール(もちろん父はやらない)。一人の時は壁を相手にピッチャー気取りで投げたり、フラミンゴの立ち姿にそっくりなあの一本足打法を真似して素振りしたり(右打ちでしたが)と憧れの野球選手の姿を追うようになります。
学校が終われば近所の友達と、公園や駐車場などの空き地でゴムボールとプラスチックのバットで遊びます(最近見ないですよね)。
初めて将来の夢というのを意識したのはこの頃で、それはもちろん野球選手だったのでした。
高学年になったら野球部に入り、高校生になったら甲子園に出場。そして巨人に入団。
この将来図に一片の疑いも持っていませんでした。
が、そんな少年Eの夢に暗雲が。
野球選手への道を、断念
小学校中学年のある時、4月の進級を前にして新学年から始まる部活動を決める話し合いがクラスで行われました。
Eはもちろん野球部を希望。
ところが!
その小学校では野球部に定員があったのでした。
そしてクラスの希望者の中で1人、定員オーバーに!
といってもEは自分が野球部に入れることを疑ってもいませんでした。「え、誰かひとり他の部に入るんでしょ?」と。
ところが希望者全員、野球部以外の部は眼中になし。
じゃ誰が外れる?
え?
俺 !?
なんと、野球部希望者も担任の教師も一致した意見がEが他の部活に入る、というものでした。
自覚がなかったんですが、当時その時点では誰からも「Eは野球が下手」だと思われていたようでした。
確かに、早生まれのEは朝礼の列ではいつも前から5人以内。
痩せてヒョロヒョロだったんで木のバットは重くてまともに振れず(プラスチックのバットでもそんなに打てていませんでした)。
いやいやそんなはずはない、やれば絶対剛速球を投げれるしホームラン打てる、と信じていて(何しろ世界トップクラスの自己肯定感人間です)頑なに他の部への入部を拒否しましたが、この世界にはいち個人では抗えない壁があることを知るのでした。
それにしてもいつの間にか「Eは野球が下手」が周囲の共通理解になっていたことは幼心にショックでしたね~
さてそれまで考えもしなかった、他の部うちのどれを選べばいいのか。
ちなみにこの小学校、全員がどこかしらの部に入る体になっていました。
ひと学年に2クラスしかない小規模な学校で部活の選択肢も少なく、水泳部、美術部、器楽部、合唱部、もうひとつどこの部にも入りたくない生徒が入るなぜか学校の掃除ばかりしている掃除部(名前は他の言い方だったと思いますが)。
水泳、楽器、お絵かきはEの苦手分野。掃除部は落伍者になるみたいで嫌だし。
消去法で合唱部に決定…
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小学生、ロックに目覚める
かくして合唱部に入部。
入ってみると大所帯の部で、音楽室いっぱいの部員。顧問の先生がやたらと力を入れていて合唱部だけ朝練があるという。
そして入部しばらくでEは気づくのでした。
自分は音楽が大好きだ、
と。
歌って最高!
朝と放課後、思いっきり声を張り上げて歌うことの気持ちいいこと。
正直合唱部で普段歌う歌は文部省唱歌がほとんど。退屈。
でも、合唱コンクールのために歌うような合唱曲の中にはいまだに大好きな曲もありました。
例えば、『太陽がくれた季節』などのオリジナルがフォークソングの曲。クラシックの合唱曲でシューマン作曲の『流浪の民』など。
特に『流浪の民』はマイナー調のメロディーに文語の重厚な歌詞。
盛り上がるラストの歌詞「いずこ行くか流浪の民~♪」には遥か異国の草原をあてもなくさまようジプシーたちの姿に思いを馳せたのものでした。
過去の記事でも述べましたが、楽器が致命的に苦手で音楽の時間が大嫌いだったEでしたが、歌との出会いは音楽に対するイメージを根底から変え、それまでの野球熱を完全に忘れさせてくれるほどでした。
Eは転校するまでの約1年、合唱部で日々練習に打ち込むのでした。
ちなみに転校先の小学校では野球部に入りました。
なぜならその学校は部活が二つしかなく、男子全員野球部、女子全員合唱部だったからでした。
楽器が超苦手だったことや、小学生から英語歌詞の歌を歌い始めていたエピソードなどを語った記事です。
衝撃だった日本のロックバンド3選
Eが合唱部で歌うことの楽しみを覚えた頃、日本の音楽シーンにある変化が起こりました。
1978年に放送が始まった「ザ・ベストテン」という音楽番組です。
それまで日本のテレビで流れる音楽といえば、演歌かアニメソングがアイドル歌手の歌謡曲くらい。
ところが「ザ・ベストテン」は毎週木曜日、その週のヒットチャート(はがきリクエストの比重が大きかったらしい)のベスト10が発表され実際にスタジオで生で演奏するという番組。
必然的にそれまでテレビには登場しなかったようなジャンルの音楽、例えばロック、がテレビで見れるようになりました。
そう、「ザ・ベストテン」の功績はお茶の間で見ることができる音楽ジャンルを圧倒的に広げてくれたことだったのでした。
しかも、
「ザ・ベストテン」とう番組は1989年まで続く長寿番組でしたが、放送開始当初からアイドル歌手に混じってロックバンドがベストテン上位を飾るというケースが多くありました。
その先駆けのバンドが、
世良公則&ツイスト
でした。
代表曲が『銃爪(ひきがね)』。
この曲は、その後寺尾聡の『ルビーの指輪』(1981年)に破られるまで連続一位の記録(10週連続)を保持していました。そしてCMでも話題になったヒット曲『燃えろいい女』。
このバンド、衝撃でした。
なにが衝撃かというと、ディストーション(音をひずませるロックでよく使われるエフェクト音)を効かせたギターサウンドに長髪で不良っぽい格好をした歌手がテレビで絶唱している姿がかっこよかったのなんの。
とはいえこのバンドの曲、特に世良公則の歌い方や歌詞にはなんとなく演歌色がにじみ出ていると言えなくもなく、今聴くとやや古臭さは隠せない部分があります。
そういえば寺尾聡の『ルビーの指輪』もかっこいいロック曲でしたね。今でも大好きです。
そして、さらに衝撃のバンドの衝撃の曲が登場します。
ゴダイゴの『Monkey Magic』(1978年)
です!
この曲は、恐らくEが初めて聴いた全編英語歌詞の曲でした。
そしてゴダイゴという日本風だか外国風だかわからないような名前のこのバンドには外国人が2人もいる(ベースとドラム)のでした!
ええ~、歌詞が英語で、外国人が演奏するとこんなにかっこいいの!?
とそれまでの音楽観が一変する出来事でした。
そしてEがこの『Monkey Magic』の英語歌詞を、英単語をひとつも知らないのに完コピしようとしたことは前出の過去記事にて語った通りです。
ゴダイゴといえばその他にもアニメ映画の主題歌だった『銀河鉄道999 (The Galaxy Express 999)』 (1979年) で 「ザ・ベストテン」7週連続一位となりました。
Eはアニメ映画『銀河鉄道999』にも深い思い入れがあり、この曲は忘れられない主題歌でした。
どれくらい深い思い入れかというと、当ブログの過去記事『アラフィフでもたまにはアニメを見ます③ Eのベストアニメ【後編】』の中で人生最高のアニメ作品として挙げているくらいです。
Eがこれまでに見た珠玉のアニメ作品について語っています。
そして、いよいよ登場です。
その後のEが中学から高校にかけて夢中になって聴き、ギターでコピーを試みたりもした日本を代表するロックバンド、
サザンオールスターズ
です!
当時最大のヒット曲は何といっても『いとしのエリー』(1979年)。
「ザ・ベストテン」で7週連続一位。
ラストの、「エ~~~~~、リィィィィ~~~~~!」の桑田佳祐の情感であふれんばかりの絶唱は日本中の人々の、そして少年Eの心を強く揺さぶりました。
他にもデビュー曲の『勝手にシンドバッド』や『気分次第で責めないで』(共に1978年)などのスピード感あふれるまさにロック曲もそれまでの日本の音楽シーンにはない衝撃を残しました。
そして誰もが知るように、サザンは1980年代以降も名曲を連発。日本を代表するロックバンドとなっていくのでした。
Eの演奏によるサザンの名曲『希望の轍』(1990年)、ギターの弾き語りしちゃってます。
娘Kの1歳当時の貴重映像と共にどうぞ。
まとめ
さて、少年Eの衝撃だった日本のロックバンド3選はいかがだったでしょうか。
世良公則&ツイスト
ゴダイゴ
サザンオールスターズ
この後1980年代に入ると間もなくEは、The Beatlesの『Let It Be』という人生最大の衝撃を受けた曲によって興味は一気に日本の音楽から離れていきます。日本の音楽はサザンくらいしか聴かなくなります。
その後、聴く音楽はほとんど洋楽、歌う歌も英語の曲ばかりとなっていきます。
王選手に始まってBeatlesに行きつく、という少年Eの情熱の変遷。
人生面白いものですね~。
1970年代シリーズまだまだ続きます。
次回をお楽しみに!
スポーツも音楽も、見るならスカパーですね。