少年時代編 自己紹介

【回顧】中学時代を過ごしたあの1980年代前半① 若き天才たちと出会う

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誰でも中学時代って懐かしいですよね。
もう40年も昔のことですが、Eは割と幸福な中学時代を過ごしました。

当時を振り返ってぱっと思い浮かぶのは、学校のクラスメイト達と楽しく過ごした学園ライフ
勉強はほとんどせずに音楽と漫画に浸っていたおたくライフ
といったところです。

今回はEがどんな中学生活を過ごしていたか、12歳にして出会ったある天才について、などを語ります。
『アラフィフの少年時代 1970年代』シリーズに続く、中学時代1980年代前半編のスタートです。
(いつの間にかアラフィフは卒業してました)

全シリーズ『アラフィフの少年時代 1970年代』もどうぞ!

中学時代のE

Eは公立の中学校ではなく、地元の国立大学教育学部附属の中学校に行きました。
公立に行かなかった理由は、当時自宅があまりにも辺鄙なところにありすぎてコンビニなどもちろんなく(そもそも当時コンビニを見たことさえありませんでしたが)、「○○商店」「○○酒店」なる小さな店がいくつかあるだけで、附属中学に行けば通学で駅前の繁華街を経由できるからでした。

一応入学試験があったんですが、その年はなぜか定員割れで受験生全員と附属小学校からの内部進学者が入学することとなりました。

教育学部附属ってどういうところ?

国立大学の教育学部って全国どこでも附属の幼稚園から中学校があるかと思いますが、どういうところかというと生徒だったEの印象でいうと「大学生が教育実習に来る学校」です。年に2、3回、ひとクラスに5~10人くらいの教育実習生が来ていた記憶があります。
ちなみにEの中学校は当時各学年3クラスで生徒は120人ほど、という小規模な学校でした。


Eの学校にはその他にこんな特徴がありました。
あくまで当時の生徒Eの視線からみたEの通った附属中学です。
40年前のことだし学校によっても違うのは当然です。

・年に一回、外部の先生が大勢来て授業参観したり会合をしている
・部活の顧問が試合の時しか来ない
・部活の数も部員数も少ない(だから弱い…)
・クラスの半分以上が進学校の高校に進学する
・地域の上流階級の子弟が多い
・各公立小学校で優秀な層が集まる
不良が少なくいじめもほとんどない

どうでしょう、なかなかいい教育環境だと思いませんか?
この当時の日本、校内暴力が社会問題になり、全国でツッパリと呼ばれる不良が横行していました。
が、Eの中学校はいわゆる「荒れた学校」とは無縁でした。

髪型がリーゼントでツメ襟と裾がやたらと長い学生服を着てつぶれてペラペラの学生カバンを持つ、というファッション性があるとはとても言えない奇抜ないで立ちで学校に通うのがツッパリと呼ばれた学生たちです。
当時のテレビや漫画にも頻繁に登場して、不良たちの間では定番の格好になっていました。

とはいえ80年代に入ると荒れた学校も落ち着きを見せ始めていました。
Eが自分の中学でツッパリを見たのはEが1年生の頃、3年生に2、3人ツッパリファッションの先輩がいただけ。
その先輩たちも、他の多くの生徒と同じように、全国的に見るとレベルが高いとは言えないものの、学区で一番偏差値が高い高校に進学しました(Eもその高校に進学しました)。

つまり、結局その先輩たちもファッションだけで本物の不良とは言えず、冷静に考えればダサさの極みでしかないツッパリファッションはこの頃を境に消滅します。
そして、Eの中学校のEの学年は3年間を通して穏やかな学園生活を享受できました。

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クラスでのE

クラス替えは三年間で一回だけありましたが、3クラスしかない学年は全員顔見知りで一部の女子を除いて学年で言葉を交わしたことのない生徒はいないくらいの状態になります。

そんな中でEはクラスの中ではそう目立つ存在ではありませんでした。
というのも、クラスにはやたらと目立つ存在が多くいて、Eが目立つ余地がそれほど残されていなかったからでした。

文化祭の出し物や運動会に命を燃やす生徒が大勢いて、その中で目立つのは大変でした。
それでもいくらかEが表舞台に立てるシーンもありました。

①2年生の時、卒業生を送る会で披露するクラスの出し物の劇(戦隊ヒーロー物)の主役
変身前のヒーロー2人のうちの1人。
②3年生の時、文化祭で有志によるコンサート(というかカラオケ)で歌った5人ほどのうちの1人。
100人くらいの生徒の前で吉川晃司の『モニカ』を歌う。

特に②は小学生の頃から音楽が大好きだったEらしいエピソードですが、本当はBeatlesの『Let It Be』『Hey Jude』を歌いたかったんですが、会場の盛り上がりを考えるとみんなが知っていてノリのいい流行曲の方がいいと説得されました。
すると、思惑通り『モニカ』は大盛況。Eは間奏で客席に飛び込み後輩の女子たちにハイタッチしてロックスター気分を満喫しました。

それにもかかわらず中学生活を通じて、他のもっと目立っていた同級生たちのように、女子から手紙をもらったり告白されたりすることは一度もありませんでした~(涙)

クラスの仲間

クラスには当然いくつかの仲良しグループがありました。
2年生になる前に一度クラス替えがありましたが、どちらのクラスも概ねこういった区分けだったと思います。

①活発で目立つクラスの中心的グループ
②地味だけど粒ぞろいのおたく系グループ
③その中間的グループ

①のクラスで中心的なグループはほぼ附属小学校からの内部進学者で構成されていました。
内部進学者は先輩後輩ともネットワークがあり、先輩に可愛がられるのも内部進学者です。

入学したばかりの時からいつの間にか内部進学者と外部受験者との間には、見えない壁がありました。
①のグループには外部受験者は入れたとしても、腰巾着的な扱いを受けるケースが多かった印象があります。
Eは外部進学者とつるむことが多くなったわけです。

その中でもEが所属していたのは②の中間的グループでした。
時には表舞台にも立ちますが、おたくの要素も多分にある、という層。
特に仲の良かった友人が5~6人いましたが、その友人のほとんどが同じ高校に進学。当時のメンバーはなぜか秀才揃いで高校卒業後にはみな難関大学に進学していきました。

天才学級

中学時代は毎年4月に知能テストがあって、その結果が生徒にも伝えられました。
今では「IQ」と呼ばれている知能指数、当然友人同士で結果を見せ合ったりします。
クラスにはEが知る限りでもIQ120越えの秀才が何人かいた上に、150台が一人、160台が一人といわゆる「ギフテッド」と呼ばれる天才にもお目にかかりました。

IQって130越えは人口の2%くらいだそうですから異常な天才学級とも言えますが、地域の秀才が集まった学校であることを考えればなくはないことです。

彼らを見たところ、IQ120越えの友人たちは主に学業で秀才ぶりを発揮して、難関大学に現役合格するなどしていましたが、IQ150、160越えのギフテッドたちは、意外と学校の成績は突出していいというわけではありませんでした。

見ていると、彼らギフテッドはあまり学校の勉強しないんですよね。
これについてはEもなんとなくわかります。

Eも当時の知能テストの結果によるとIQはいい方で、小学生の頃は授業を受けるだけで内容は理解できていたので勉強しませんでした。
中学でもほとんど授業だけでインプットできるんですが、さすがに勉強しないとテストの場でアウトプットが上手くできません。
内容も少しずつ高度になるので勉強、というかテスト対策をしないとなかなかいい点数が取れなくなってくる、でも勉強する習慣は身に着かない、というパターンです。

ただ彼らも「なるほど天才だ」と思わせる才能も発揮していました、
IQ160越えは内部進学者で、ピアノの天才でした(とはいえ、その後音楽の道には進みませんでした)。
IQ150越えは、Eと同じように受験をして入ってきました。中学当時からクイズマニアで大人になってからはクイズの世界で名を残す存在になりました。

特にIQ150の方は多才で、難しい文学作品や評論などを読みまくっていたり、自分でも文章を書いたりする文学少年の面もあり。
しゃべりも達者で、競馬中継のモノマネを披露したり全校生徒が集まる討論会で司会をしたりと、方々で才能を発揮するマルチ人間でした。

天才からのインスパイア

そしてこのIQ150の友人、Dとは中学高校を通じて一番仲のいい友人でした。
彼からは少年時代にホントに多くの影響を受けました。

・Aクリスティ、Eクイーンなどの本格推理小説にハマる
サザンオールスターズにハマる
・村上春樹など文学小説にハマる

「え、サザンだけ音楽じゃん?」と思う人もいるかもですが、サザンの曲のほとんどを書く桑田佳祐氏の歌詞はそれまでのポップミュージックの歌詞とは一線を画す、文学臭さえする画期的なものでした。

桑田佳祐氏の歌詞はある時期から「日本語と英語を絶妙に組み合わせて、日本語を英語っぽい発音で歌う」ということを明らかに意識し始めていました
その最たるものが、Eたちの中学時代にリリースされたサザンオールスターズの1984年の大ヒットアルバム『人気者で行こう』でした。
と、サザンの素晴らしさについては今後当シリーズで改めて語る予定です。

サザンオールスターズ『人気者で行こう』1984年
※詳細は画像をクリックしてください。



そこにすかさず目を付けたのが、IQ150越えの文学少年Dでした。
Dは自分がハマっているものの情報は何かとEにも教えてくれていて、ある時サザンのアルバムの入ったカセットテープをいくつか貸してくれました。ほとんど洋楽しか聴かなくなっていたEでしたがサザンの音楽には秒でハマりました、どっぷりと。

中学生がLPレコードを買えるほどのお金は持っていなかったんで、あらゆるソースを使ってカセットテープにダビングしてもらい、それまでのサザンのほとんどの音源をかき集め、ほとんどの曲を歌えるようになっていました。

DにインスパイアされたEは、日本の音楽としては唯一サザンオールスターズの音楽を、1994年頃に「BLANKEY JET CITY」というバンドに出会うまでほとんど一曲も逃さず聴きまくるのでした。

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Dは同じ高校に進学してからも引き続き最も仲の良い友人で、その後も『ノルウェイの森』で日本を代表する文学者になる以前の村上春樹の小説をEに紹介。
これまた秒でハマって彼の全ての著作を読み漁り、現在に至るまで新作に旧作にと、何かというと村上春樹の著作を読んでいます。
D自身も中学高校と学校の勉強はほとんどせず、家では夜遅くまで小説を書いたりしていました。

大学生になったEが文芸研究会というサークルに入って小説を書くようになったのも、元を正せばDからのインスパイアでした。

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』
Eはこの小説をこれまで20回以上読んでいます。
※詳細は画像をクリックしてください

天才クイズ王Dのその後

これでEの話は終わるのですが、もちろん後日談はあります(村上春樹『風の歌を聴け』の一節風)。
高校時代、受験2か月前になるまでほとんど勉強しなかったEは一浪して日本大学商学部に入学します。
同じく全く勉強しなかったDは二浪して超難関私立大学に入学し、同じ東京の大学生となって何度か東京で会うことがありましたが、やがて疎遠になりました。

彼はかねてからの趣味であるクイズの世界で有名になり、異常に高いIQを生かしてテレビでもよく姿を見かけるようになります。
そんなDも、Eが台湾に住んでいた頃、台湾の有線テレビの日本チャンネルで放送していたある番組にDがクイズ王として出演していたのを見たのが、彼を見た最後になりました。

実はDはテレビ画面を通して受ける印象とは裏腹に、天才であるが故なのか、当時は厭世的で破滅的な傾向があったので、今でも無事に生きていればいいのだけれど、と時々思ったりしています。

まとめ

公立でなく、国立大学教育学部の附属中学校に進学したことで、人生で後にも先にも出会えなかったような異常にIQの高い天才に出会うことができ、彼らによってEはその後の人生でもある部分で長く影響を受けたといってもいいわけです。

地方の、120人ほどの比較的優秀な生徒が集まった中学校で、何人かの天才に出会えるという貴重な経験ができたわけです。
思えば、高校時代からしっかり受験勉強をして難関大学に入学していたら、きっと日本中から集まって来る天才たちに数多く出会えていたのかもしれません。
現代は当時より圧倒的に多くのメディア(SNSやYouTube、その他)があるため、特異な才能を持つ人たちが発信する情報をより得やすくなっていますが、なにしろEの人生の前半はインターネットのない時代でした。

何ごとも「人対人」で完結する世界で、質の高い出会いがもっとあればもっと人生を刺激的な方向に変えてくれていたたことでしょう。とはいえ、Eの人生は充分刺激的でしたが。
Eは小学校- 高校- 大学はごく普通のレベルの学校に通い、結果、中学時代のように天才に出会えることはありませんでした。

そう思うと、小学6年生の終わりに附属中学進学を決めたEの選択は悪くなかったようです。
今後もEの中学時代、そして1980年代についても語ります。
次回をお楽しみに!

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