アラフィフ男子の少年時代、って聞くとどんな想像をするでしょうか?
ごく最近の世代の人の場合、その風景はきっと白黒だったりセピア色だったりすることでしょう。
確かに、Eの子どもの頃の写真には白黒写真も混じっています。
しかし当然ですが本人の記憶にははっきりと色がついています。
若干登場する人物の顔が、はっきりしなかったり細部がぼやけていたりはしますが。
今から約50年の昔を生きていた本人でさえ、あの頃と今を比べると「変わったな~」と思えるんだから当時を全く知らない新しい世代には異質の世界くらいに思えたりするのではないでしょうか。
今回はそんなアラフィフ男子Eの少年時代、主に1970年代がどんな時代だったのかを紹介します。
Eの生い立ち
Eは1970年代初頭に地方都市で生まれました。
一家は、職人であり兄弟で小さな工場を経営していた父の仕事関係の、東京のとあるお金持ちの家をまる一軒借りて住んでいました。
Eの生家
Eが生まれてから10歳くらいまで住んでいた家が、どんな家かというと、
・家族三人(後に妹が生まれる)で住むには大きめの三階建て
・当時すでに古く、壁は一部ブリキだが、木造の外壁も残っていた
・雨漏りがあったり、物干し台の階段の木が腐っていたりと戦前の昔から建っていた可能性あり
・時代劇に出てくるような蔵があった!
と、このような古い家に住んでいました。
特筆すべきは、重厚な瓦屋根と白壁、青銅製の重い窓が目を引く、そこだけは江戸時代からあったんではないかとさえ思える蔵があったことです。
こんな感じの蔵です。
この蔵には地下室があって、一度だけ降りてみたことがあったんですが、まさにホラーでした。
かなり幼いころの記憶です。
地下の暗がりに向かって父親と階段を降り、そこで見た光景は。
明かりは暗く文字も読めないくらいで全体的に暗い緑色。湿ったかび臭いよどんだ空気。土壁に囲まれた狭い空間。
闇の中にうごめく父の顔が青白く浮かび上がる。
あまりの恐ろしさに泣き叫び、1分とそこに留まっていられませんした。
恐らくですが、相当古い家に各時代で増築を繰り返したせいで、いろいろな時代の建物が混在していたのではないでしょうか。
両親がEを叱る時「地下室に閉じ込めるぞ!」と脅されると、もはや言うことを聞くしか術はありませんでした。
ちなみに祖父母の家はというと、お風呂は外の庭で薪を焚いてお湯を温めます。
こたつは掘りごたつ、というか足元で炭火を焚いて温めます。暖房器具としては火鉢もありました。
だからこたつの中では足を延ばせません。伸ばせば火傷するか足が灰だらけになるという。
もう、『日本昔ばなし』の世界ですよね(って知りませんよね…)。
ベイビーEと祖母、祖父母の家の庭にて
両親の戦争談
Eが生まれたのは太平洋戦争が終わってから約25年後。
当時の日本はまだそこかしこに戦争の傷跡が残っていました。そして、いろいろな大人から「戦争の時は…」という話を聞きました。
駅前の商店街で包帯をぐるぐるにまいた傷痍軍人さんが、街頭募金を求めてなにやら書かれた紙の横に佇んでいる姿も1度だけ見たことがあります。
引用:ウィキペディア「傷痍軍人」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%B7%E7%97%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA
両親も含めて、戦争の話で多かったのが「戦争の時は○○だったけど、今はいいよな」といった不幸自慢的な内容でした。
「今は白いご飯が食べられるからいい」とか「当時は学校なんか行けなかった」とかです。
それはもう今はよくなってくれてありがたいとは思うけど、戦時中それができなかったことを幼い子供にまるで武勇伝のように語られても、だからどうしろというんだとしか思えません。
そのせいか、Eは昔の不幸自慢をするのは控える傾向にあります。
ともあれ、Eの両親はどちらも戦争体験者です。
しかも父は小学生高学年の頃、米軍による空襲の被災者です。
母は空襲の時はまだ幼く郊外の山の近くに住んでいたため空襲を逃れました。
市街地が燃えさかる炎に包まれる光景は高台にあった家から見えたらしく記憶に残っていたようです。
父が戦争末期に住んでいた家はまさに空襲で燃やされ、夜遅くに始まった空襲の火の手から一晩中逃げまどっていたそうです。
これはEが父の生前に聞いた戦争や空襲についての話です。
・戦時中は配給の雑穀や豆を食べていた。
・砂糖は高級品で、砂糖を舐めることは最高の贅沢だった。
・空襲の時、家が燃えて垣根を越えて逃げようとしたら母(Eの祖母)に引きずり降ろされて反対方向に逃げたおかげで生き延びた。
・空襲の翌朝、地中に育っていた芋が焼夷弾の熱でちょうどよく焼かれていてその焼き芋を食べた。
・焼夷弾の落ちてくるヒューという音が恐ろしくて今も忘れられない。
・(戦争の話から外れますが)弟と二人で小学校から帰る時、隣の学校の生徒10人くらいとケンカになって、履いてた下駄を脱いで武器にして10人と戦った(けどボコられた)。
など、いかにも戦争、軍国主義下のエピソードです。
印象に残っているのが、両親とも戦争のエピソードを悲惨な体験という感じではなく、むしろ懐かしげに話していたことでした。
現在進行中のコロナ禍。
Eは2年近く家族、幼い娘にも会えずにつらい時期を過ごしているわけですが(戦争の比ではありませんが)、時が過ぎれば毎日セブの家族とスマホで会話したりアプリで遊んだりしているこの時間も、懐かしいと思えるようになるのでしょうか。
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1970年代とは
1970年代、年号でいうと昭和45年~55年。
Eの生誕から10歳くらいまでの日本や世界はどんな時代だったのか。
当時の少年Eの目線から紹介します。
多少事実と違っていたとしても、それは少年Eの当時の認識です。
印象に残っている事件 ~ロッキード事件
当時起こった事件、といっても社会で起きている出来事をおぼろげながらにも認識できるようになったのは小学校に入ってからです。
1970年代前半まで世界を揺るがした事件といえばなんといってもベトナム戦争ですが、幼い子供がが遠くの国で起こっている悲惨な戦争のことなど知る由もありません(二十数年後に実際にベトナムを旅することになりますが)。
1970年代に少年Eが一番印象に残っている社会的事件は「ロッキード事件」でした。
「ロッキード事件」といえば1976年、時の首相、田中角栄がアメリカの航空機製造大手のロッキード社の全日空への大型旅客機売り込みに便宜を図ることで5億円の賄賂を受け取ったという贈収賄事件、一大汚職事件です。
もちろん、小学校低学年の少年に事件の詳細や重大性が理解できるわけがありません。
なぜ印象に残っているかというと、あまりにもテレビニュースで頻繁に報道され、その後何年にもわたって事あるごとに何度も報道されて続けていたからです。
汚職事件というと、その後に「リクルート事件」などの日本を揺るがす大事件もありましたが、ロッキード事件ほどの報道量、あれほどの長期間に渡る報道は記憶にありません。
ちなみにロッキード事件の裁判は、田中角栄が亡くなる1993年まで17年続き、没後の1995年に最高裁で有罪判決が確定したそうです。
おまけに報道の中心人物である田中角栄という人物が、子供心にも強いインパクトがありました。
田中角栄は、当時汚職という政治の汚い部分の象徴だったと同時に、英雄でもありました。
学歴がなく、極貧の生い立ちから総理大臣に。日中国交正常化、列島改造論、目白の闇将軍。
と、彼の功績を称えるキーワードの数々。
ロッキード事件の裁判が長年係争中であるにもかかわらず、自民党で絶大な影響力を持ち、圧倒的な得票数で選挙に当選。地元での絶大な人気。
※詳細は画像をクリックしてください。
田中角栄氏の首相としての在任期間は2年5か月と決して長い方ではなかったようです。
彼の政治家としての功罪にはいろいろな評価がありますが、1970年代を彩った主役の一人であることは間違いありません。
それは少年Eにとっても同じでした。
ただ、少年Eにとって田中角栄は千両役者ではあったものの英雄とは映りませんでした。
物心ついた時から、政治家は汚い、でも人々の称賛が得られる、という世の中の矛盾。
そして「英雄とされる人にも裏がある」という印象が強く刻まれていました。
カラーテレビがやってきた
Eが幼い頃の家庭は当時としても貧しい部類でした。
地方の街の周りの多くの家庭同様、その後にバブル経済期が訪れるまでは中流以下の生活水準でした。
Eの原始の記憶では、Eの家のテレビは白黒でした。
カラーテレビが家にやってきた時のことは覚えています。確か4歳か5歳でした。
では、幼いころのEはどんなテレビ番組を見ていたのでしょうか。
白黒テレビで見ていた番組は幼すぎたせいか全く覚えていません。
そこに白黒テレビが置いてあった、という記憶だけでした。
そしてカラーテレビがやって来た最初の頃に見た記憶のあるテレビ番組は
『ウルトラマン』シリーズ
『仮面ライダー』シリーズ
『オバケのQ太郎』
どれも昭和を代表するヒーロー、キャラクターですね。
もちろんこの後すぐに登場する、日本最強のアニメキャラ『ドラえもん』も漫画にアニメと夢中になって見ていました。
新しくやってきたカラーテレビは、大きめの箱型になっていました。
幼いEはテレビの中に人が入っていて、その人が紙芝居みたいに映像を動かしているものだと信じていて、時折テレビの中の人に話しかけたりしていたものでした。
昭和のヒーロー、仮面ライダー&ウルトラマン
やはり当時少年の間で最大の人気を誇ったのは仮面ライダー、ウルトラマンでした。
どちらかというと仮面ライダーの方がブームは早かったと記憶しています。
今も覚えていますが保育園の頃、男子は全員が仮面ライダーでした。
ただ、じゃんけんに負けるとショッカーです。
「ほいー、ほいー」と言いながら仮面ライダーにやっつけられなければなりません。
友達と遊びといえばもう仮面ライダーごっこ。Eはよく階段や段差を降りる時に「とお!」っと叫んで両手をバンザイにしながら飛び降りていました。
それがあまりにも癖になっていて、段差があると反射的に「とお!」と口にして飛んでしまいます。
ある時に人目があって恥ずかしいから黙って降りようと思ったのに、なぜか自然に手がバンザイ、口が「とお!」になってしまって困ったことも覚えています。
仮面ライダーのお面とライダーベルト、そしてマフラーでご満悦の少年E
白黒写真です~、セピア色に加工しました。
⇒ 『仮面ライダー図鑑 | 東映 - 仮面ライダーWeb』はこちら
ところで、仮面ライダーにしてもウルトラマンにしてもEは最近まで、思っていた記憶とある齟齬があることがわかりました。
Eはどちらも初代仮面ライダー、初代ウルトラマンからリアルタイムで見ていたと勘違いしていました。
初代仮面ライダーのテレビ放送は1971年。
初代ウルトラマンは1966年。
どちらもEの生まれる前か、物心がつくより前でした。
この勘違いというのも、当時のテレビ番組は頻繁に再放送されていたからでした。
そういえば確かに、ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンA(エース)、その他仮面ライダーシリーズも再放送で何度か見た記憶がありました。
記憶がごちゃ混ぜになっていたんですね。
小学校の頃、ウルトラマンシリーズも4作目(ウルトラマンA)5作目(ウルトラマンタロウ)と進んだ時分、突然日本を席巻するウルトラマンブームがやってきました。
これはもう、仮面ライダーをはるかに凌ぐ一大ブームでした。
ブームの影響はキャラクター商品にも及び、その際たるものはウルトラマンファミリーと多数の怪獣たちの形を模した消しゴムのガチャガチャでした。
このウルトラマン消しゴムを当時の小学生男子は平均100個は持っていたんじゃないでしょうか。
もちろんEもでした。
一番好きな怪獣は、なんとあろうことか初代ウルトラマンを倒してしまったゼットン。
畏敬の念を持って消しゴムを拝んでいました。
因縁の強敵ゼットンはこの後のウルトラマンシリーズに何度も登場していたようです。
⇒ 『円谷ステーション - ウルトラマン、円谷プロ公式サイト』はこちら
ちなみに、Eの後に生まれた世代の人からすると信じられないかもしれませんが、Eは次のこれらのキャラクターにはほとんど馴染みがありません。
・アンパンマン
・ちびまる子ちゃん
・クレヨンしんちゃん
・ポケットモンスター
セブに住む三歳の娘が、日本滞在時にアンパンマン大好きっ子になったおかげでアンパンマンについはてかろうじて知っていますが、他はどんなキャラでどんな設定なのかイマイチ把握していません。
子供の人気キャラって、大人になるとホントに興味なくなりますからね~
初代ウルトラマンが、あの「シンゴジラ」や「エバンゲリオン」を生んだ庵野秀明氏によって「シン・ウルトラマン」として新作を製作中だそうです。
楽しみですね~♪
まとめ
懐かしすぎる昭和、1970年代。
こうして記事を書いているだけでも懐かしさがこみ上げてきますね~
こういう記事は書いていて心底楽しいです♪
これからもEの少年時代の背景、文化、出来事などについて紹介していきます。
次回をお楽しみに!
この動画配信サービスから『仮面ライダー』『ウルトラマン』シリーズ見れます!