Eは昔から海外、特にアジアの国々にとても興味がありました。
多くの国を旅したり、台湾に住んだり、現在に至ってはセブ出身の妻を持ち、セブに家族が住むなど、深くアジアとかかわってきました。
30歳の時、Eが会社を辞めてアジア長期旅行に旅立つことを決意したときの理由がこれです。
①とにかく外国人と交流するのが楽しかった
②日本の過酷な労働環境に嫌気がさしていた
③寒さが苦手で暖かい国に住みたかった
こういう話をすると、
「日本はこんなにも発展していて便利だし、国民も勤勉で公共心が強くて治安が良いし、日本に住んでたまにツアー旅行で海外旅行すれば十分だろう」
と思う人が多いでしょう。
実はEも20代半ばまではそう思っていました。
Eの海外体験
Eの海外旅行体験の一部を紹介します。
ちなみに今でこそ英語と中国語の日常会話ができるEですが、20代のEはこと会話に関しては全然できませんでした。
ただ、Eは小学生の頃から洋楽が大好きで、忘れもしない初めて覚えた歌はBeatlesの "Let It Be” でした(当時ジョンレノンが射殺されるというショッキングな事件がありましたね)。
小6の頃、英語の単語をひとつも知らないうちからこの曲のシングルレコードを何百回も聴いて純粋に音声だけを覚えて歌っていました。
30歳の時、
当時日本中の駅前に教室を持っていた大手英会話学校で英語の勉強を始めてから、子供の頃からの英語の音声を純粋にコピーするという習慣が外国語の習得に大きく役に立つわけですが、それ以前は英語で話しかけられたら体が硬直するレベルでした。
Eの初海外旅行
初海外は27歳の時。
当時から南国の海に憧れていたEは「結構日本語が通じる」らしいという理由で当時の彼女とグアムのツアー旅行にいきました。
確かにまあまあ日本語は通じました。
が、空港にしてもレストランにしても日本語NGの現地の人とやり取りしなければならない場面ってどうしてもありますよね。
Eにはその場面が恐怖でした😱
何かしら現地の人に聞かなければならない場面でもマジでビビって躊躇していたんで彼女にはかなり呆れられました。
なるほど成田離婚ってわかる、って我ながら思いましたね。
考えればわかることですが、Eは真剣にグアムって日本にいるのと変わらないくらい現地の人も普段から日本語を話している、くらいに誤解していたわけです。
その結果、
もう外国に行くのはやめよう…
と思ったEでした。
会社の中国研修旅行
Eは大学卒業後、中華料理チェーンの会社で働いていました。
入社8年目、30歳で埼玉の店舗で店長をしていた時でした。
結構古くからある会社だったんですが、中国研修を「復活しよう」ということが起こって、Eは北京と上海に研修旅行に行くことになりました。
実は、この時のEはグアムで外国語が通じなくて恥をかくことを恐れ、ビビりまくっていた時のEとは少し変わっていたのでした。
Eはグアムの旅の27歳から30歳の間に、若者にありがちな多くの精神的な葛藤を乗り越えていたからです。
自意識過剰がゆえに人と上手く話せない、初対面の人に話しかけることが怖い、そういった心理的な壁を20代のEは乗り越えようとあがいて行動し、30代迎えた頃にはかなりの部分を克服していました。
結果的に、この久しぶりの海外旅行はEに大きな衝撃を与えました。
Eの人生の分岐点となったといっても過言ではありません。
Eに大きな影響を与えた中国研修旅行
その中国研修旅行は他の支店の店長たちと総勢30人くらいで行きました。
会社の料理人たちは彼らで別に料理に特化した形の研修旅行をしていて、店長たちは本場の料理のトレンドや知識を身につけることはもちろんなんですが、中国の本場のレストランサービスを学ぶという料理人とは別角度の目的も持っていました。
Eが店長をしていた中華料理の会社は、かなり真剣に中国の料理を研究して取り入れている高級な部類のレストランを経営していました。
一席何万円もするような超高級宴席の場などでお客さんに語れるようにEもサービスマンとして中国料理だけではなく中国茶や中国文化なども学んでいました。
その旅行は北京と上海の2都市6泊7日くらいだったと思いますが昼と夜の食事はすべて広東料理、四川料理、宮廷料理、北京ダック専門店などそれぞれ特徴をもった有名高級店で食事をしました。
が、正直に言うと、おいしくなかったんです。特に北京の料理は。
日本の中華料理しか食べたことがないEには口に合わなかったんです。
北京の見た目には豪華な料理も口にすると極端に甘かったり味が薄かったり、しかも慣れない味がするという、日本の中華料理とは似て非なる(日本のほうが非かもですが)料理ばかりでした。
ですが、Eは料理の味はそんなに気にしていませんでした。
店長たちは、中国の高級店はサービスが悪い、とこぞってご立腹でした。
確かに中国の服務員さんたちは愛想がよくもなく、当然ながら言葉が通じないんで何か言われても困った顔をするばかりですし、その会社の店のサービスマンたちの異常なまでな客への丁寧さ(失礼)に比べると、サービスがいいとは言えませんでした。
が、Eにはそれもどうでもいいことでした。
Eの本当の旅行の目的
Eは旅の間じゅう「現地の人と交流したい」ということしか考えていませんでした。
というのもこの頃、Eは既にかなり真剣に日本を離れて外国を長期旅行、あるいは移住してみたいと考えていました。
もちろんその場合、会社は辞めることになるわけですが、実際にその3か月後に退職しています。
旅行中、毎晩豪華すぎるレストランでの食事が終わると自由時間がありました。
他の店長たちはあれだけ食べまくったのにさらに「料理の勉強」とやらでガイドブックに載っている有名な店にそろって出かけていましたが、Eは完全別行動をとりました。
例えば、
上海で店長たちは相も変わらず高級店に行く中、ひとりで一般庶民が普段食べるような食堂に行って店の若い店員さんと話したりしました。
ある夜は、またも一人で北京の街をぶらつき、見かけたライブハウスに入って、なぜか中国人の店員さんや他の客と一緒に英語の歌を歌っていたりしました(確か古い名曲、"Stand by Me" でした)。
え、中国語話せたの?と思うかもしれませんがその時点では中華料理の料理名以外「謝謝」とその旅のガイドさんにおしえてもらった「対不起(=I'm sorry)」くらいしか知りませんでした。
どう話していたかというと、これです。
この最高の名著、旅先で絶大な力を発揮しました。
中は漫画風になっていて、旅のいろいろな場面で使うフレーズを日本語と外国語を同時に並べています。
中国だけでなくこのシリーズは現地の人に見せるだけで大喜びされます。
この本に書いてあるフレーズの「発音を教えて」とお願いするだけで喜んで教えてくれます。こっちも真剣に発音をマネします。
しかも何か言いたいことがある時、実際に指さしで伝えるにも結構役に立つという一石二鳥。
この本、
旅の最高のコミュニケーションツールです。
ライブハウスの店員さん達とは次の夜(中国旅行最後の夜)一緒に食事しようということになってホテルの部屋の電話番号を教えました。
残念ながら次の夜は会社の「研修」の食事から帰るのがかなり遅くなりました。
恐らく掛かってきていたであろう電話に出ることができず、そのまま日本に帰るということになってしましました。
Eはこの旅で、「外国の人と交流するってなんて楽しいんだ」ということに気づいてしまったのです。
帰りの飛行機の中でEの決意は固まっていました。
翌週には会社に辞意を伝え、
3か月後に退職、
翌日から3か月、ほぼ毎日駅前の英会話学校に通い約1年に及ぶアジアひとり旅に旅立ったというわけです。
まとめ
たとえ今回紹介したこの中国旅行がなかったとしても、Eは人生のどこかしらで必ず海外に飛び出していたことでしょう。
例えば本当に音楽が好きな人は、普段何もしなくてもテレビやラジオから耳に入ってくるポピュラーな音楽だけでは物足りなくなるはずです。
もっと心地よくなれる音楽はないかと、外国の音楽を聴きあさったり、他のジャンルの音楽を聴いてみたり、自分でも楽器を演奏したり歌ってみたりするのが当然の成り行きだと思います。
Eも音楽に関しても大好きで、実際小学生の頃から洋楽のレコードを聴いて歌ったり、ジャズやレゲエやR&Bなど多くのジャンルの音楽を聴いたり、下手なりに長年ギターを弾いたりしてきました。
Eにとっては海外と触れ合うことも同じような現象でした。
もしあのまま日本の会社でずっと働き続けていたらそこそこの地位について結構な年収を稼いでいたことでしょう。
そうだった場合と比べて現実のEとでは生涯年収でものすごい差があったはずです。
でももし人生をやり直せるとしてもEは絶対にそっちは選びません。
台湾で日本人の年収の半分くらいの給料で日本語教師をしていた時、Eは人生で最高に楽しい毎日を過ごしていました。
今も年に何日かを妻と子供たちの住むセブで過ごすことが最高の幸せです。
これまで日本で過ごしたどんな瞬間よりもです。
人生で一度は海外に、それも一人旅をしてみませんか。
きっと今までとは違う何かが見つかるはずです。
自分の世界を、人生を、今よりも広げることができるはずです。
さあ、旅の準備を始めましょう!
ではまた!
コロナ収束後の次の旅にぜひ持って行ってください。何かを起こせるかもです。
※台湾と中国では同じ中国語でも使っている言葉も文字もだいぶ違います