バイク旅行

昔はバイク旅してました① 明石海峡大橋の絶景、そこに「本当の自由」はあったのか?

投稿日:

現在50代前半のEですが、30代以降は常に海外を目指してきました。
実は自分の中では「海外を目指す」というのはちょっと違っていて、体感としては「今いる場所からできるだけ遠くを目指す」というのが近いです。
なぜそうするのか。
さあ出ました。
「自由」を求めるためです!

古くから「自由って何?」という問いは人類に問いかけられた永遠の課題でもありますが、Eにはその答えがあります。
が、言葉で上手く説明することがどうしてもできません。
ただ、こうすれば感じられる。錯覚できるという方法は知っています。

今回はEがかつてそれを感じたバイク一人旅について語ります。

「本当の自由」とは

人はよく「自由がほしい」などと言いますが「自由」って何でしょう。
なかなか答えの出ない難しい問いだし、人によってそれぞれだとも言えます。

「自由」の反対語は?

では「自由」の反対語って何でしょう?
よくある答えは「束縛」とか「責任」とか言われます。いったん「不自由」は置いときます。
「束縛」も「責任」も、他者とのかかわりの中で起こることであるという共通点があります。
つまり、他者のせいで自分は自由が奪われている、ということを示唆する反対語です。

確かに、周囲のしがらみや強制によって今現在自由ではない。それらがなければ自由になれる。
という自由の捉え方もあるかと思います。
Eも、例えばきれいに引き継ぎをして会社を辞めた時などには大きな解放感を感じます。
「やっと自由になったー」とも思います。
しかしEがあの時に感じた自由はそんなものではありませんでした。

人によってそれぞれある「自由」。
Eにとって「自由」の反対語は「執着」です。
「執着」に他者が入り込む余地はありません。
完全に自分マターです。
本当の自由は他者はどうあれ、自分がこだわって捨てきれないものを断ち切った時に得られるというのがEの説です。

となると「本当の自由」はあれとも切っても切れない関係にあります。
そう「あれ」とは。

「孤独」

です。

今自分の周りにあるものすべてを捨てられる、今と完全に隔絶した場所へ遷る、そんな時に本当の自由を感じることができるというわけです。

さて、Eが本当の自由を感じた瞬間とは。
ヒントは「世界の広さを知る」です。

本当の自由を感じたあの瞬間

本当の「自由」を感じた瞬間、Eにはそれを明確に記憶しています。
その時、そやつ、「自由」は目も眩まんばかりの圧倒的な物量でEの身体を包み込みました。
その時の状況がこれです。

20代の終わり頃
名古屋のレストラン勤務時代
③真夏に4日間の夏休み
④ホンダのバイク、STEEDで初のバイク一人旅
⑤明石海峡大橋を渡って淡路島入り
明石海峡大橋の真下、もと来た本州側を見渡した瞬間

その場所は、淡路島
神戸淡路鳴門自動車道の一部である明石海峡大橋を渡って淡路島にたどり着いてすぐにある「道の駅あわじ」(当時は「道の駅」ではなくただの公園だったような)。
その場所は巨大な橋を真下から見渡すことができます。

その時にEが撮った写真は遺失してしまったんですが、ほぼ同じ構図、気象条件で撮影された画像を見つけました。
これです。

淡路島側の真下から見た明石海峡大橋
画像引用:淡路島観光情報メディア - AWATRI『道の駅あわじ』より
https://awatri.com/roadsidestation/awaji/



この位置から見た明石海峡大橋と明石海峡の全景
実際にこの場所に立つとわかりますが、息をするのも忘れそうなほどの気が遠くなるような絶景です。

絵画の遠近法のお手本のような構図。
消失点のさらに向こうまで突き抜けんばかりに引かれた直線
目の前の明石海峡の海を隔てた向こうには兵庫県の街が横たわる。

この風景を見てEは思いました、「ずいぶん遠くに来てしまった」と。
当時のEの生活圏であった名古屋から淡路島までは実際はそう遠い距離ではありません。
どこまでも伸びる巨大橋が描く直線横たわる海とがそう思わせたのかもしれません。
それでも確実にあったのは「元いた場所と完全に隔絶した場所まで来た」という実感でした。

兵庫県と淡路島の間、明石海峡を渡す明石海峡大橋はつい最近までは世界一の長さを誇る吊り橋でした。
この橋ができたのが1998年4月
そう、Eがこの橋を渡ったのは開通してほんの数か月後のことでした。

と、20代後半のこの頃のEの状況について簡単に説明しておきます。

20代後半のE

東京の大学を卒業して高級中華料理のレストランチェーンの会社に就職したE。
店長に昇格すると同時に名古屋の店舗に転勤
約5年間を過ごした名古屋の、この時は確か3年目でした。

始めは成果を出そうと躍起になっていた店長の仕事も3年目となると慣れとマンネリがやって来ます。
当時の日本の厳しい労働環境に洩れず「名ばかり管理職」として残業代も休出手当も支払われずに長時間労働をしていました。

客単価の高いレストランで、周辺の企業の利用も多く、店長クラスは上得意客の企業への営業もしていました(飛び込み営業もあり)。
ストレスも少なくはなかったけど、まだ20代と溢れんばかりのエネルギーがあった頃。
夜遅く仕事が終わっても夜の名古屋の街で派手に遊んでいました。
といっても夜のお店とかではなく、音楽が大好きなEはいくつかのライブハウスの常連客でした。

バブル期に学生時代を過ごした世代のE。
当時収入もかなりよかったですが、消費もかなり派手でした
いわゆる「チャラい」20代を過ごし、いつのまにか30代も目前。
時々ある疑問に襲われました。

このままでいいのか?
この会社にいる限りこれが永遠に続く?

と。

何かが足りない、でも何なのかわからない。仕事が忙しすぎる以外に何ひとつ欠けるものなどない楽しい暮らし。
それでも常にどこか孤独を感じてもいました。
なんだか正体のわからないもやもや感

こういうのってたぶん多くの人が若い頃に感じているんじゃないでしょうか?
自分が本当に求めているものがわからない感じ、とでも言うのでしょうか。
それが当時のEの状況でした。

そしてEには大学生の頃からある趣味がありました。
バイクです。

Eのバイク遍歴

東京の大学生だったEは中型バイクの免許を取ります。
初めて手に入れたバイクは当時発売されたばかりのヤマハ「SRV250」

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

人生初のバイク、ヤマハSRV250

ハーレーなどにも使われているV型2気筒エンジンを搭載したヨーロピアンスタイル、という珍しいコンセプトのバイクでしたがこの、ややレトロで優雅なスタイルに惚れ込みます。

YAMAHA SRV250
画像引用:ヤマハのカタログより



初心者でも扱いやすそうなこじんまりとした車体。
当時京王線の仙川駅近くに住んでいたEは世田谷にある大学までバイク通学。バイト先の渋谷までバイク通勤したり、時々都内や湘南あたりまでを走り回っていました。

憧れのバイク、ホンダ STEED400

そして変遷を経て、ついに名古屋の地でかねてからの憧れのバイクを手に入れます。
ホンダのアメリカンスタイルバイク「STEED400」です。

Eが実際に乗っていたSTEED400
写真場所は確か佐渡ヶ島



かっこいいですよね~!
これは中古、とはいえ走行距離数百キロで買った新品同然のバイクでした。
右側の三角のエアクリーナーカバーなど細部は既にカスタマイズされていましたが、この長~い2本のマフラーはEの特注。
Eがこれまでの人生で唯一「物」に愛情を注いだと言えるひと品です。

このSTEEDは、後の台湾移住の際に売却。
その後は台湾で100CCのスクーターに乗ってたりしたけど、現在の地元に帰ってから初めて車を購入。と同時にバイク卒業
かれこれ10年以上バイクから遠ざかっています。

Eがどういうタイプのバイク乗りだったかというと、けっしてバイクウエアに身を包み仲間とツーリングというタイプではありませんでした。

完全普段着で、時にはスーツで通勤、と派手なでかくて重いSTEEDを普段使い
時には不良っぽい柄シャツ、腕にはタトゥーシール。
ある時は裸にダブルのスーツ(ミッキーロークの『蘭の女(Wild Orchid)』という映画のマネ)。
正直あまり交通法規も守らず、週末の夜などは名古屋のメインストリート、広小路通りを名東区方面にかけて暴走族のみなさんに便乗して赤信号をバンバン通過したりと。
あ、これ昔の名古屋では普通だったんですよ(ですよね?)。

そう、Eって知性派のイメージがあるかもしれませんが(ないかもですが…)実は意外と野生派だったりします。ワイルドだろ~


そして、ツーリングなるものが大嫌いでした。
東京のヤマハSRV時代に一度、奥多摩の山方面に会社の人と一緒に走ったことがあるんですが、他の人とペースを合わせるのがとにかく苦痛で。

名古屋でSTEEDを手に入れて初めての夏を迎えたEは、満を持して夏休みを取り、四国を目指してバイク一人旅に出発したのでした。

初のバイク一人旅

与えられた時間は4日間
8月の猛暑日。天気予報も4日間雨の気配なし。
レストラン勤務とあって前日も仕事は夜遅くまであります。昼近くに起きて出発。
高速で大阪方面へ
大阪を通過、途中神戸の三宮の寿司屋で晩ごはんなど。阪神淡路大震災から数年しか経っていませんでしたが、すでに復興が進んで震災の面影なしでした。
イルミネーションが美しい神戸の湾岸線を走っていよいよ淡路島は目前

と明石海峡大橋を目の前にしてEはサービスエリアで、寝ました
深夜、辺りが真っ暗でせっかく渡ったとしても景色が一切見えないからです。

寝たのは愛車STEEDの上
このバイク、特徴でもある後部席の背もたれを枕に、両足をハンドルに置けば割とゆったり寝ることができました。

この写真の場所は確か、伊勢?



そう、これも人生初。
夜空と自分とを遮るものが何ひとつない、星の下、自然の中で眠りにつく。
野宿、というか車上泊

野宿の解放感にも目覚めたE。
その後の人生でも国内外で寒ささえ凌げれば平気でどこでも寝れるようになったのでした。

日の出の時間、辺りが明るくなるといざ淡路島へ!
仕事の疲れも取れていない上に睡眠不足でしたが、興奮で全く気になりません。
見えてきました。
明石海峡、淡路島、そして巨大な建造物、明石海峡大橋
夏の朝のひんやりとした空気を切り裂き、海の上を滑るように走るSTEED。

この時、海上の橋をバイクで渡ることの快感を覚え、その後もマレーシアはペナン島など各地で海上の橋をバイクで渡るようになったことは当ブログの過去記事でも語っています。


長い橋を渡り終え、淡路島に入ると高速道路を降り、再び橋のたもとに。
そこにあった公園(現在は道の駅)で目にしたのが明石海峡大橋の真下からみたあの景色
そこにはついに見つけた本当の自由があったのでした。

途方もない自由、そして孤独

この風景を見た若きEはふと思いました。
「もしこのまま名古屋に戻らなければ俺、完全に自由だ。全てをリセットできる」と。

4日間の夏休みを取ってのバイク旅。
このまま戻らない、失踪
などということはもちろんあり得ませんが、それまで考えたこともなかった胸躍る空想

いくつものしがらみと日常に忙殺される暮らしを完全に捨て去り全てをリセットする
海を隔ててもと来た方を振り返った瞬間から、そんな途方もない願望を絶ち切れなくなるEでした。

そしてEはその数年後に、実際に全てを捨てて海外に旅立ちます
Eの海外体験をざっと紹介すると。

・30代の初めに約1年間のアジア放浪旅行
・その後に台湾移住
・現在家族がセブに住み、時折セブに滞在

なぜEは海外を目指したのか。
理由は複数あります。
そのひとつは単純に「外国人との交流が楽しい」というもの。
これは完全に他者とのかかわりから得られる喜びですよね。

そして海外を目指したもっと大元、根本の理由は「世界の広さを感じられるから」です。

それは「自分が元いた場所からできるだけ遠くの場所を求める」ということも意味します。
元いた日本、地元、親族、仲間、コミュニティ、職場。これって完全に切り捨てるってそうそうできることじゃないですよね。

現状への執着を完全に切り捨てれば、全ての面倒事から解放されます。
が、それと同時に完全な孤独が訪れます。
でもそれが本当の自由です。

さて、悲報です。
なんと、ここまで書いてきて、最後にこんな身もフタもない結論が待っているとは。
Eが明石海峡大橋の真下で感じた途方もない本当の自由。
あれは、

巨大な建造物と自然の風景がもたらした「錯覚」に過ぎませんでした。

そう、錯覚です。
結局は数日後には夏休みが終わり、いつもの忙殺の日常へと帰っていきました。
一瞬の解放感に過ぎなかったし、日常への執着などかけらも捨てることなどできていませんでした。

しかしEは錯覚だったとはいえ、あの途方もない自由の感触の中毒患者になってしまっていました。
翌年、翌々年と真夏に数日の休みを取っては短い夏休みに行ける限り遠くへと旅をしました。
そしていつしか想いは海の向こうへ。

数年後、会社を辞め、英会話を勉強し、アジアへと旅立ったのでした。

まとめ

人生の大きな分岐点となった海外への旅立ちの、その根源の根源となったバイク一人旅について語りました。
今回紹介した人生初のバイク一人旅ではたった4日間の短い夏休みに淡路島周遊~四国周遊~瀬戸大橋を巡り名古屋へ戻る、という息つく暇もない怒涛の旅でしたが、翌年からは現地の人たちとのふれあいも生まれます。

今後も若きEのバイク一人旅を紹介していきます。
次回をお楽しみに!

外国でバイク旅、これが一番です!

-バイク旅行

Copyright© 負けない派遣社員 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.