50代派遣社員の職歴紹介シリーズです。
久しぶりの今回は30年ほど前に遡ります。
東京の大学を卒業して新卒で就職した外食産業。首都圏の他、大阪や名古屋など多数のチェーン店を持つレストランを経営する会社でした。
時はバブル崩壊期。
意気揚々と就職したEでしたが世の流れに翻弄されます。
とはいえ、就職活動をした大学4年はバブル経済期最後の名残を残していました。
そう、伝説の「バブル就活」を体験した最後の生き残りと言えるでしょう。
今回は「職歴」の紹介の前提としてEがどんな大学生活を送っていたのかについて語ります。
まるまるバブル期の大学時代
Eは一浪して東京都世田谷区にある日本大学商学部に入学。
大学生活はこんな感じでした。
・飲食店でのバイト生活が中心
・交友関係もバイト関係が中心
・ゼミには入らず、卒論も書かなくていい
・学業は卒業するに最低限の授業を受けるだけ
・ロングスリーパーだったので何もなければ10時間以上寝てる
・文学サークルに入ってたまに小説を書く(ド下手)
・バブル当時大ブームのスキーサークルに入って冬だけ合宿に参加
・就職活動に向けての資格の取得や企業研究などは、一切考えたこともなかった。
と、授業もよくサボりこれといった目標もなく過ごし、他人に「これをやりました」と特筆して言えることもなく過ごした大学生でした。
バイトについて
バイトは1年生の時に当時住んでいたアパート近くの京王線仙川駅商店街の喫茶店で始めて卒業まで続けたんですが、途中渋谷のお洒落バーの調理場で働くなど掛け持ちもしていました。
特に渋谷バイトに行くと、終わってからバイト仲間と飲みに行って井の頭線の始発で帰る(学校は休む)がパターンでした。
そして渋谷バイトの職場柄、みんなかなりお酒を飲んでいました。
普段は3~5人くらいで飲みに行くんですが、ビールの他にウイスキーやジンなどの洋酒は飲むけど、日本酒や焼酎や酎ハイは飲まないという、田舎もんのくせに気取った勘違い男だったのでした。
当時は送別会的な集まりなんかで大人数で飲みに行くと、アホみたいに大量のお酒を飲んでいました。
Eの世代の人ならご存じの通り飲み会では必ず「一気飲み」をします。
Eはかなりお酒が強かったので、一気飲みの世界ではマウントを取れていました。
最高でビール瓶2本一気をしたんですが、飲んだビールが胃で膨張して逆流。たまらずトイレで全部リバースしたり、など。
狂った時代でしたよね。
ちなみにバイトの時給は、大学一年で始めたた仙川の喫茶店では650円、同じ喫茶店で大学四年には850円に。
渋谷バイトは大学三年に初めて950円。やっぱり都心の方が時給がよかったです。
ちなみに大学時代のバイトの様子については過去記事で詳細を語っています。
睡眠について
Eは十代の後半から30代半ば頃までロングスリーパーでした。
どんなに寝ても起きると眠いし頭が痛いし身体もだるくて。
おまけにどんな時間帯に寝ようと、はたまた寝まいと、午後5時から午前3時以外の時間帯は常に必ず眠くて調子が出ない、という昼と夜が逆転した体内時計を持つ特異な体質だったのです。
なので、PM5-AM3以外の常に眠い時間帯ならいくらでも寝れたので、時間が自由になる大学生の期間はとにかくよく寝ていました。
その代わり、就職してからは仕事中も眠くてつらかったんですが、出勤が午前10時以降で勤務時間の半分は眠くない時間帯にあたる飲食店への就職は正解だったと言えます。
普通に8時から5時まで働く仕事に就いていたらかなりひどいパフォーマンスしか発揮できていなかったことでしょう。
実際、30代後半になるまで普通に昼働く仕事には就くことはありませんでした。
30代後半のある時期に急に「あれ?朝早く起きてもそんなに眠くないし頭も痛くない」と体質の変化に気付くのでした。
学業について
ホントに学業は卒業するのに最低限必要なことしかやっていなくて商業学科を卒業しましたが商業学というものがなんなのか最後までわからずじまいでした。
言い訳をすると、どう考えても大学の教授や講師の授業が質が悪いせいでもありました。
現に、大学一年の必修だった簿記の授業は当時さっぱり理解できなかったのに、卒業後20年ほどしてBook-offで100円で買ったテキストでひと月半ほど勉強したら日商簿記3級に合格したということもありました。
大学の1年間の授業が、100円で買った市販のテキストに歴史的敗北を喫したわけです。
これについては過去記事でも詳細を語っています。
それに、大学四年間で唯一「学ぶって面白い」と感じた「労働経済論」とかいう名前のマルクスの経済理論を解説する授業があったんですが、ほぼ欠かさずに出席して「A」の評価を取りました。
大学の授業があれくらい学問の面白さを伝えられているのであれば、Eはどんなに眠くても授業に出席していたことでしょう。
そういう授業は聞いていても眠気は一切感じませんでした。
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サークル活動
大学といえばサークルです、よね。
Eは二つのサークルを掛け持ちしていました。
文学サークルとスキーサークルです。
文学サークル
入学と同時に入部したのが文学サークル。
もともとEは村上春樹をはじめ、国内外の小説をよく読む少年でした。
当時は今のように動画コンテンツが少なかったから娯楽といえばテレビか漫画か小説。
高校二年で読んだ村上春樹の文章に雷で撃たれたような衝撃を受けていたEは自分も小説を書いてみたいと思い、入学直後に校庭に所狭しと各サークルのブースが立ち並ぶ新歓オリエンテーションの日に自ら文学系サークルを探して入部しました。
その文学サークルの部員数は各年バラつきがありますが、概ね10人くらい。
弱小サークルですが、一応学術系のためか地下に暗くて狭い部室があって、授業の空き時間にそこに行けば誰かがいる、という便利さがありました。
ついでに先輩たちが残した教科書があって、取った授業によってはそれを使わせてもらって買わずに済んだりしました。
文学系の活動としては、年に一、二回小説の同人誌を出す、だけ。
あとは新歓コンパと夏合宿と学園祭と追いコン。要するに飲み会をします。
正直、というか当然ですがサークルのメンバーに先輩後輩含めて文学的な天才鬼才はいませんでした。
作品を書く量もサークル内ではEが一番多かったといってもいいくらいでした。
そのEも熱心に創作していたのは大学3年の始めくらいまでで、それほど多くの作品を書いたわけでもありません。
3年の時に一度、文学誌の新人賞に応募してみたことがありました。
原稿用紙で100枚くらいの青春小説。応募したのは村上春樹が『風の歌を聴け』で新人賞を受賞してデビューした『群像』という雑誌。
村上春樹のミーハーファンもろ出し。
もちろん落選。
ちょうど渋谷バイトを始めて、狂ったように飲み歩く生活が始まり、それ以降卒業まで小説は書いていません。
その後30代後半、台湾から帰国して1980年頃の白色テロ時代の台湾を舞台にした、文庫本にすると300ページくらいのミステリ小説を書いてみたことがありました。
一応最後まで書いたものの、緻密なプロットと細かな伏線回収が必要なミステリ小説を、矛盾なく仕上げることの途方もない作業量に雑誌への応募などは諦めました。
ま、最初に緻密なプロットを組み立てておけばいいだけなんですけどね。
文学サークルの活動をしていたことには後にメリットがありました。
現在こうしてやたらと長文のブログ記事を書いていますが、文学サークルで小説を書いていたおかげか文章を書くのはかなり早い方です。
こういった文学的装飾もなく、しかも趣味で書いているだけのブログ記事の文章なら指が動く速度のまんま書き進められます。
また、かつて働いていた職場であったんですが、ボスがしばしば従業員にビジネス本を配布して感想を書いてこいと言われる会社がありました。
他の同僚たちは結構苦労して読んで書いていたようなんですが、Eは10~20分くらいで、本をほとんど読まずに書けていました。
せっかくなんで今回は、ビジネス書の感想文を10分で書くコツを紹介します。感想文の文章量はA4の用紙に8割ほどとします。
例に挙げる本は、日々の仕事がつらくて逃げたいと感じているサラリーマンに向けたEの推薦書『しょぼい起業で生きていく』です。
Eの実際の蔵書
【ビジネス書の感想文を10分で各コツ】
課題書籍:『しょぼい起業で生きていく』えらいてんちょう著
書籍提供者:E
感想文提出者:架空のブラック企業勤務サラリーマン
書籍の内容:サラリーマンなどの嫌な仕事から逃げて「事業計画」も「資金調達」もなしでしょぼいながらも自分が食べていける分だけ稼げればいいと割り切って、そのためのノウハウを著者自身の経験をもとに解説している。
【感想文の書き方】
①書籍を提供した人の意図を考える
⇒ ここでは題名からして書籍提供者Eは「起業をすべき」と考えているはず。当然だが書籍提供者の感情を損ねるような感想文は書くべきではない。Eが「こやつ俺の意図を理解してるし、本の内容もよく把握しているな」と感心するような感想文にすべき。
②書籍の趣旨を一瞬で読み取る
⇒ そのためには題名、目次を参考にする。帯がついていればさらにヒントになる。
この本では「仕事が嫌で辞めたい人などが、一般的な起業でなくしょぼい起業をしても生きていくには充分やっていける」が趣旨と推測できる。
さらに目次を見ると「著者はしょぼい起業を実際に経験してそれなりに上手くやっていて、その考え方やノウハウを提供している」と見えてくる。
※ちなみに書籍の中で著者が「一般的、常識的にはAだけど実はB」や「昔は、これまではAだったけどこれからはB」などと逆張りを述べている部分が趣旨、つまり著者が言いたいことであることがほとんど。
この書籍では「一般的に起業は事業計画や資金調達など充分に準備してから行うもの」だが「実は準備はそこそこのしょぼい起業でもやっていける」が著者の言いたいこと。
③感想文には書籍で使われているキーワードをそのまま使う
⇒ 感想文で書籍の言葉を自分の言葉で言い換える必要は一切なし。言い換えると時間がかかるし「ホントにちゃんと読んだのかよ?」となる場合もあり得る。
この本の場合、目次から「サラリーマン(が嫌)」「事業計画(は不要)」「準備資金(も不要)」「協力者(は必要)」「広告宣伝費(も不要)」あたりがキーワードのよう。
④感想文の構成をテンプレートに当てはめる。
⇒ 一般的な感想文のテンプレート
冒頭:書籍の趣旨を「この著者の主張は○○ということです。」の中の○○に100文字くらいでまとめる。その際は「一般的はAだけどこの本ではBと述べている」的な構成にする。
理由:著者がそう考える理由を本の中からいくつか列挙する。
具体例:理由を補強するために具体例を挙げる。
まとめ:「今後はこういった姿勢で業務(または人生の選択)に取り組みます」「今後のビジネス(転職活動)の展開としてこういった考え方を取り入れていきます」的に締める。
※上司に真っ向から反抗する覚悟がある場合は逆も可(Eは実際にやったことあり、「こういう考え方は間違っている」と)
といった感じです。
知識があったり慣れてたりすると①から④まで1、2分でできるようになります。
あとはテンプレートに当てはめるための文章を書籍の冒頭から終わりまで、できるだけ万遍なく探してA4の用紙に転記するだけ。
これで10~20分で完成。しかも、本を読む時間も必要ないというわけです。
これ、ある職場で同僚たちの前でやって見せて驚かれたこともありました。
価格:1430円 |
起業したいけど自分にはできないと思い込んでいる人におすすめです。
Eがこのテクニックを誰に教えられるでもなく自然に身につけられたのは、取りも直さず自分で文章をたくさん書いてきたからです。
こと何かを説明する文章を書こうとすると、大抵の文章は自然と同じような構造になります。
つまりこの特技は、大学時代に文学サークルで小説とはいえ、文章を書くことによって基礎が身についていたわけなんですが、何を隠そう就職活動をした四年生の時点では「文章を書くことが得意」という自分の強みを全く自覚していなかったのでした。
ちなみに、Eは例に挙げた著書『しょぼい起業で生きていく』を読んだ後、実際に家族が住むセブ島の自宅でコロナ禍期に妻に指令を送ってリモート起業を実行したのでした。
セブ島でコロナ禍期にリモート起業した時の過去記事です。
スキーサークル
Eは大学二年生の時にスキーサークルに入りました。
これ、珍しいことです。
ほとんどの人はサークルに入るとしたら一年生からです。二年生から入るとある程度人間関係が固定化された集団に入っていくことになり、やや居心地がよくない場合があります。
Eが入った時も見事に居心地がよくなかったんですが、Eはあえて二年生で入りました。
なぜか。
文芸研究会にいるとオタクっぽい人しかいないから、せっかく東京の大学に入ったのに根明(ネアカ:当時の流行語)の学生たちのような学園生活が送れない!
と思ったからでした。
理由はもうひとつありました。
今でこそEは、異性であろうが外国人であろうが躊躇なく話しかけられるし、話始めればよく喋るほうですが、高校生から大学三年ころまでのEはかなり内向的で人見知りで自分に自信がなく、奥手でした。
いわゆる思春期に起こるコミュ障状態が続いていたんですが、中学生まではそうでもなかったことから、Eは何とか克服したいと思っていました。
文学サークルの仲間はどちらかというとEと同質のオタク傾向の学生が集まっていて、自信のなさによる人見知りをそう感じる必要がない仲間でした。
が、学内を見渡すとテニスやスキーなどのサークルに入っている都会の根明な人々はEにはまぶしすぎて気後れしてしまいます。
そこで、Eは思い立ちました!
困難に直面した時、Eはその後の人生でもこの時と同じ法則で乗り越えてきました。
その法則とは、
とりあえず慣れる、数をこなす
ということです。
そしてそうなるためには、嫌でもやらざるを得ない環境に身を置く、ことが必要となります。
そして、二年生の4月のサークル新歓オリエンテーション日にEは、文学サークルのブースでほとんど来ない入部希望の新入生を待つ傍ら、複数のスキーサークルに説明を聞きに行き、中でも地味目の学生が多そうなスキーサークルに入部を決めたのでした。
なぜテニスじゃなくてスキーだったかというと、時はバブル。
一大スキーブームの真っ只中。
それに、テニスって疲れるじゃないですか。
しかもテニスウエアが似合うのってイケメンじゃないと。
スキーならスキーウエアにゴーグルで誰だかわからんし…
バブル期の日本を描いた映画『バブルへGO』。
すごい、いや狂った時代でしたよね。
※詳細は画像をクリックしてください。
いざ、入部!
新入生が入部すると、新歓コンパや新歓合宿があったりしますよね。
E、参加しました新歓コンパ、そして新歓合宿。
合宿は富士五湖のうちのどこかの民宿でした。
そのバスの中や宿では実に居心地の悪い思いをしました。
Eは圧倒的に学内で交友関係が狭かったうえに、日大商学部はひと学年1200人の大規模学部。
2年生になったとはいえ、サークル内に知っている顔はひとりもなし。
1年生たちも当然初顔。
一体誰としゃべればいいの?
地獄の新歓合宿を乗り越えると、Eはスキーサークルの存在理由である冬合宿の季節が来るまで半ヤメ状態で飲み会にも全く出席せず。
「人見知りの克服」という目的を考えれば行くべきでしたが、なかなかちょっと。
いざ冬合宿!
そのスキーサークルは学外のメンバーも入れると100人くらいいて、そのうち合宿には男女約半々の50人ほどが参加。日大商学部って当時女子は2割もいなかったのにどこから女子が湧いて出た(失礼)のか?
そんな大所帯の二週間ほどの合宿がひと冬に三回ほどありました。
最初の合宿は12月下旬、冬休みに入ってすぐです。
これ、この後も三年間欠かさず参加したんですが、めちゃめちゃいいタイミングにありました。
なぜなら、クリスマスを合宿中に過ごすことになるからでした。
バブル期のクリスマスって、まさに男女がデートをする日でした。
逆に、彼氏彼女がいない場合、この世の終わりかと思えるほどの孤独と疎外感にさらされます。
それはEは一年生で経験済み。もうあんな思いはしたくない。
クリスマスに彼氏彼女がいない大学生って実は意外と多くいますよね。Eもそれに洩れなかったため、この時期のスキー合宿はまさに救世主の降臨でした~
一応ゲレンデに出れば上手い先輩がコーチ役でみんなして技術の向上に励みます。
どこにも行き場のない雪山の中で二週間も一緒にいると、そこそこみんなと馴染んできます。
そういった合宿がひと冬に三回もあればなおのこと、四年生にもなった頃にはEが思春期を引きずっていた人見知りも解消。
コミュ障は鍛えれば克服できるってことを証明しました。
卒業してからもEはコミュ力をさらに鍛え上げ、鉄のメンタルと世界最高クラスの自己肯定感を手に入れるのでした。
就職について
さて、そんな風に大学生活を謳歌していたEでしたが、これは諸説ありますが大学という場所はある意味「就職予備校」としての役割もあるわけです。
日大商学部には会計学科もあり、早くから日商簿記検定を受けるなど就職に備えている学生もいました。
当時はほとんど聞いたことがありませんでしたが、近年ではインターンシップなる職業体験をすることで企業や社会についての理解を深める学生も多いと聞きます。
では、Eは?
就職のことなど一切考えていませんでした。
だって、バイトするだけでも生きていけるから。
まるまるバブル期だったEの大学時代。
前述のようにアルバイトの時給も最初の650円から渋谷バイトの950円になるなど、日本の賃金水準はうなぎ上り。
今まで買えなかったものが手に入るようになり、全部そろえると十万円を軽く超えるスキー用品も数週間分のスキー合宿代も、春夏秋とバイトをすれば余裕で賄える世の中になりました。
車や電気製品など、日本製品は世界中でもてはやされる。こんな最高な世の中がこれからも続く。
と、何の疑いも持っていなかったのでした。
就職活動なんて「みんながやるから自分も体験しておくか」くらいに考えていたEでした。
まとめ
今回はEが新卒でレストランチェーンの会社に就職する前段階、Eがどんな大学生だったのかについて語りました。
ご覧の通り、見事なまでに刹那的、享楽的な能天気大学生でした。
浪費にも無頓着で、こういう傾向は就職後も20代を通して続きました。
そして特筆すべきは就職に対する考えの甘さ。
これはその後の就職活動の結果に直結しました。
人並みにいくつも会社を受けますが、結果的に一社を除いて全て落ちる。
一次面接だろうが適正テストだろうが何ひとつ通らない、という地獄のループに陥りました。
次回はそんなEのボロボロの就職活動と、レストランチェーンの会社に唯一の内定をもらった経緯について語ります。
お楽しみに!